いつからフラグとかカップリングとか気にして物語を見るようになったんだろう。

 最近、アニメの実況タグを見ながらアニメを見るのが趣味というか、他人がどうそのアニメを見ているのか?っていうのに興味があって、いろいろ見ているんですが、鉄血のオルフェンズを見て思ったことが、ブログタイトルのそれで…。

 自分の中では、フラグとかカップリングとか全然気にしないで受け取ってるんだけど、なんか大勢の人たちは、初見時から直ぐにフラグという物語の演出構造や、新キャラが出るたびにカップリング妄想とかする気がします。

 こういった楽しみ方は、否定もしませんし、面白いと思うんですが、問題は、いつから初見時からそういう物語の構造や、二次創作に即繋げる思考回路が形成されたのかというところです。

 僕は、フラグとかカップリング妄想とかそういうのは、あくまで副次的・二次的楽しみ方であって、まず一次的楽しみ方である「何も考えず作品に身を委ねて素直に見る(受け取る)」っていうのをまずするものじゃなのかなあと思っていたし、そういうもんだと思っていたんですが、少なくとも、ツイッターの実況民を見る限りはそうではなく、そういう一次的楽しみ方をすっ飛ばして副次的・二次的楽しみ方であるフラグ・カップリング妄想といったものに一足飛びに行ってしまうという印象を受けます。

 先述したように、こういう楽しみ方は否定しませんしむしろ楽しいし、所謂考察の楽しみだと思うのですが、どうも初見時からフラグとかが気になるってのはどうもフィーリング的に合わないなあと…。

 多分、世の中の人は、物語作品を受ける体験が豊富すぎて、物語の定型(テンプレート)をたくさん収集してしまったがために、嫌でもそういうテンプレートに当てはめて物語の展開を予想したくなるという回路ができていると思うのですが、これが本来の一次的楽しみ方を阻害してしまっている気がします。

 そして、作劇者もそういう受け手の思考回路を逆手に取って、フラグ・伏線といった予兆からおそらく大体はこういう展開にするだろうという期待に沿った話作りをしたり、逆にそれを裏切るという演出をしたりするのだろうけれども、それってなんか作劇の自由を奪っている気がしないでもないんですよね。

 そりゃ、結局物語はある程度のテンプレートが在るとは思うんですが、あまりフラグとか伏線とかをメインに物語作品の楽しみ方の優先度上位に置くと、自由な今までのテンプレートから外れた作品がでてこなくなるんじゃあないかとか危惧したりします。というか演出技法としてそういうものがないとそもそも作品として受けてもらえなかったりするのかもなあと…。

 フラグとか伏線とかわかりやすく定型化して楽しませるエンタメは確かに昔からあって、ハリウッド映画の作劇なんてまさにずっとそういう物があると思うのですが、そういったものだけが娯楽作品として受け入れられる状況になると、どうも新しいエンタメは出てこない気がして…。

 特にオチはないんですが、なんかどうもフラグとか伏線とかカップリング妄想とか、そういうのが受け手の全面(それも初見時に)に出過ぎてなんか素直にありのままの作品を受けるという一次的楽しみを結果的にスポイルしているのはもったいないんじゃあないかなあと言ったお話でした。

 おしまい。